遅れてきた反抗期

最近妙に反抗的な発想をするおっさんの日記のようなもの

以前はテレビや世間・ネットなどの情報を簡単に信じていた私ですが最近は妙に信じなくなってきたどころか反論すらするようになりました
主にそんな反抗的な見解を書いていこうと思っています
しかし無駄に長かったり話の方向がブレて着地点を見失う癖があります

宗教

日本人は無宗教派が多いなんてよく言われますが本当にそうでしょうか?
ほとんどの人の実家には仏壇があり、どこかのお寺に先祖代代のお墓があって時々墓参りをしているとしたらそれはもう立派な仏教じゃないでしょうか?

それでも無宗教と言い張りたい人は、これまでいくつかの新興宗教が起こしてきた問題で宗教に悪いイメージが付いてしまって自分は無宗教だと思いたいだけじゃないでしょうか?
しかも無宗教と言いながら墓参りや初詣などに出向き、おまけにキリスト生誕祭まで祝うとしたらもう頭がおかしいレベルです。
しかも悪いイメージから無宗教でありたいと思う人は案外ちょっとしたきっかけで宗教にのめり込み易い人が多い傾向にあります。

宗教は必要か?不要か?この答えは人それぞれだと思いますが本当に宗教が不要な人はかなり少ないと思います。
人間というものは非常に心の弱い生き物ではないでしょうか?人生の中で1度も心病むことなく終われる人は1割に満たないらしいです。

宗教は大雑把に言うとそんな弱い人間の心を支えるものではないかと思います。
少し砕いて言えば大きな役割が2つ、1つは人が夢も希望も失ったときにでも生きていく理由となる何かを示すこと、もう1つは他人との関係性を保つために他人に迷惑をかけない道徳的な心掛けを促すこと。

そしてこの2つは決して悪ではありません。

よく特定の宗教や人に対して洗脳だとか悪徳だとか言われたりしますがそれらが悪か?と言えば悪だとは限らないと思います。
むしろ当人同士の関係性を知らない赤の他人が悪だと決め付けて責める方がもしかしたら悪なのかもしれないとまで思います。

世の中には色んな人がいて、命令されることで安心する人も居ます。
もしかしたらお金をつぎ込むことで何か安心するなんて人も居るかもしれません。
(どちらも単に依存症でそれを利用されている可能性が高いですが)
なので例えば傍から見てあの人は洗脳されてお金を取られていると見えても当事者同士は命令されたい人・命令したい人、お金が欲しい人・お金をあげたい人という利害関係の一致により結びついている可能性だってあります。

こういうと「みんなが悪だと言ってるんだから悪だ」という人も居るでしょう。
でもこの「みんなが~」というのは日本人が(日本人だけかは知りません)幼い頃に植え付けられてしまう「みんなと同じは良くて違ったらダメ」という意外と危険な思想でイジメの1つの原因じゃないかと思います。
更に危険なのはこの思想の発展型、自分はみんなと同じ極普通の人だから自分の思ったことは大半が思っているんだという思い込みです。

個人的な価値観で言えば例えば望みもしないのに勝手に押しかけてきたりああしろこうしろと命令する宗教は全て悪だと思っています。
良い宗教は道徳的な面で「こうするな」とは言っても「こうしろ」という具体的な命令はしないものと思っています。
なぜ宗教戦争とかテロとか殺人を犯させるおよそ人を許すということを知らないものを神と信じられるのか不思議です。

また宗教などで現存の絶対的な権力者などを設定するのは絶対に信じません。
なぜなら人間だからです。
人間は日々色んな出来事があり、それに影響を受けて変わっていくものです。
たぶん世の中のそういう人達の中には元は本当に良い人だったけど崇められて調子に乗って悪い心が芽生えた方も居るんじゃないかと思います。
また自分自身が変わらなくても自分を取り巻く環境が変わり利用される事も考えられます。
技術や法律の変化で今日の最善の選択が明日には最悪の選択になる可能性すらあるわけです。
特定の人を絶対的な存在として崇めるなんて危険すぎます。

宗教肯定なのか否定なのか何が言いたいのか解らなくなってきましたが宗教と聞いて内容も解らず毛嫌いしちゃいけないということ、そしてよく知らない他人の事を勝手に悪人と決め付けちゃいいけないということです。

特にマスコミの事件取材は予め善悪を決めつけて行うことが多いので要注意です。
『悪』と決めつけられて責めるような取材を何度も繰り返されたら大抵の人は怒りますよね?
視聴者にいかにも悪い人という印象を与えるVTRはこうして作られてるんだと思います。
中にはごく普通の質問を無意識に裏の裏の斜め上ぐらいを読んで1回目から激怒する方も居ますけどね。