遅れてきた反抗期

最近妙に反抗的な発想をするおっさんの日記のようなもの

以前はテレビや世間・ネットなどの情報を簡単に信じていた私ですが最近は妙に信じなくなってきたどころか反論すらするようになりました
主にそんな反抗的な見解を書いていこうと思っています
しかし無駄に長かったり話の方向がブレて着地点を見失う癖があります

パソコンを使えないサイバーセキュリティ担当大臣

正直な感想は「今更それ? ん~…今まで寝てたのかな?寝ぼけて適当な事言っちゃったのかな?」です

多くの人が言ってますが各大臣は担当する分野に従事したことがあるか?と言えばほとんどがNOですよね
知識もそれほど有るとは思えません
下から上がってくる問題や解決案について詳しい人が判断を下してそれを公表するだけの存在じゃないでしょうか?(あれ?大臣要らなくない?)

詳しい事は知りませんが担当を誰にするかって本人が決めたわけじゃないだろうし本人を責めるのも相当筋違いだと思います

つっかかってる人は担当になったんだから『せめて使って少しでも覚えなさいよ』と言いたいのかも知れませんが、一般的な使い方は覚えられてもセキュリティーについての必要な知識はたぶん一生かかっても全部覚えることは出来ないでしょう?(日々状況は変わっていく世界だし)
農林水産大臣に漁に出ろとか杉の伐採に行けとか聞いたことないですよね

あとパソコンの知識について言えば「自称詳しい人」はまぁいいです(色んな本なんかを読み漁って知識を蓄積した人だろうから)
でも「自称ハッカー」「自称クラッカー」というのはどうかと思います
何が出来るかと言えば多くの人は誰かの作ったソフトウェアで何かを解析したり、誰かの作ったウィルスを忍び込ませたりとアプリケーションの利用者でしかありません
原理や方式を全て理解して自分で作れるくらいになってから言って欲しいものです

動機不明な犯罪

先日、比較的よく見る番組で近年有りがちな『誰でもよかった』『殺してみたかった』という(恐らく一定世代以上の常人には)理解し難い犯罪について語られていました

その番組では何かの専門家を招いて話を伺っていましたが、何か差別的思考を持っているのか「4歳くらいでその傾向が有ることが解る」などと生まれたときから人間ではないかのように決めつけている気配でした

そんなものはそこから大人になるまでで変えようと思えば変えられると思います
なぜそういう人が大人になってそういう犯罪を起こすかと言えば、4歳まででそうなってしまった環境(主に家庭)を大人になるまで変えずに育てたからです

『人間らしさ』(各国の文化によって『人間らしさ』は違うと思いますが)を持ち合わせていないことは解っていて、どうしてそうなったかを考えずに元々違う人間なんだと考えているので解決策が判らないのだと思います

ここで言う『人間らしさ』とは他人を思いやる気持ちや命に対する考え方だと思いますが、昭和辺りから標準的になった核家族化に原因があると思います

なぜ簡単に命を奪うことが出来るのか?

大人になるまで親しい人の死というものを体験していないために人が死んだら悲しむ人が居るということが解らないのです
これは祖父母や曾祖父母が同居していても近年の寿命では体験しない可能性も有りますが、肉体的に衰えていく姿を見て労わる気持ちは持てます

核家族でも自分が存在する以上は必ず祖父母や曾祖父母が居るのですが、年に1回会うかどうかの人が遠くで亡くなっても『人間は歳をとると死ぬんだ』くらいの認識で大した悲しみも持たないと思います

更に核家族ではコミュニケーションが不足します
コミュニケーションは日本人の感覚での『人間らしさ』を覚える上で欠かせないものです
誰も居ない家に帰って夜まで待ってやっと帰ってきた親とそれほど話す時間もなく就寝時間なんて家庭も有ると思います
家族がどんなに子供のことを大切に思って育てていても子供とのコミュニケーションが無ければ子供にそれは伝わりません
それが伝わらなかった子供はちょっとしたことで親すら殺すかもしれません

近年、コミュニケーションが苦手な人が増えて色んな場面でコミュニケーション不要なシステムが有難がられていますが、更にコミュニケーション障害を増やすかなり危険なことだと思います

何世代かが同居すれば幼少期の子供の世話は祖父母がすることが多いと思います
子供は祖父母の他人とのコミュニケーションを見て他人との距離感やコミュニケーションの方法を学びます
また初めての子供を育てる場合、親は何も知らないので間違った育て方をする可能性が高くなります
これも祖父母が同居していれば即座に間違いを正すことが出来ます

しかし核家族化にるコミュニケーション障害に近い人が既に老後を迎えつつある時代にこんなことを言ってももう遅いのかも知れません

ノープロブレム(いや問題ありすぎ)

バカ

世の中には「バカ」などと言われて無条件に怒り出す人が居ますが思考停止していませんか?

恐らくその人の中では

・「バカ」と言われた
・バカにされている
バカにされる覚えはない
・言い返さなければならない

という理屈で完結しているのだと思います
そして怒るということは「バカにされる覚えはない」が必須だと思います

ここでなぜバカにされる覚えがないのにバカにされているのか疑問に思わないのでしょうか?
本来ならばバカにされる覚えがないなら何についてバカと言われたのか質問するべきだと思います

そういう意味でバカと言われて直情的に怒る人は本当にバカなのかもしれません
(本当のことを言われたときにだけ怒る人も居ますがこの場合も同様です)


そしてもう一つ、主に子供の言い返しで

バカって言った方がバカなんだ

というのが有りますが、これはその通りだと思います

言う方がバカでなければ「バカ」という何を指摘したいのか判らない言葉など使わずに、バカだと思った行為などについてしっかり言葉にして伝えられると思います

万能な言葉ほど役立たずです

「マジ卍」 いったい何が伝わるのでしょうか?

ふざけて使う分には問題ないですが癖になって大事な場面で出てしまわないように気を付けましょう

イジメ問題

イジメ問題は昔から絶えず定期的に取り上げられています

「イジメを止めよう」なんて呼び掛けたりしていますが、そんな呼びかけでイジメを無くすのは不可能でしょう
むしろ「強くなれ」と言いたいです
しかしこの言葉もイジメる側に真意は伝わらず「お客様は神様」のような履き違えが起こるでしょう

 イジメの構図というのは弱い者が更に弱い者を見つけて行うものです
これは動物の世界でも有りがちな事で恐らく弱い者が強さを誇示したくて行うからです

 では強者はどうなのか?
強さを誇示するために戦う事はなく、弱者を守るために戦います

昔は大人でも子供でもときどきそんな強者が居たものです

しかし現代にはそんな強者は存在しないでしょうね

これは現代の社会にも似ている気がします
昔は一代で財を成した強者が多く居ました
強者は災害時の援助など弱者を守るために大金を使うことを躊躇いません
税制度だって収入の少ない(またはない)弱者からは取らず、収入の多い強者が負担するという制度でした
弱者を守る意識に目覚めていた強者が多かったからそうなっていたのだと思います

 弱者を守る意識は自分自身を守ることで精いっぱいな状態では目覚めることはないと思いますが、ほぼ全ての生命体に備わっている本能のようなものだと思います

絶滅の危機に瀕したとき、1人だけが助かっても種としては絶滅ですから

 しかしそういう意識に目覚めることの出来ない強者ぶりたい弱者はそれを偽善と呼びたがります
「強さを誇示したい弱者」というのは見栄を張る人と似てますね

 そんな時代から数十年が経ち、民間も政治も世の中は二世三世の時代です
二世からは元々強者に守られていた弱者で、強者に育つ可能性は低いと思います
起業や政治参入にペナルティ的な資金がかかるようにして新規参入し難くしているので今の世の中はほぼ強者不在です

政治すら強者不在で弱い者イジメの制度を作り勝ちな時代にイジメを無くそうなんて不可能なのだと思います
こうなるともう履き違えでいいからイジメられても耐えられる打たれ強さが必要なのかもしれません

 

コミュニケーション障害

近年蔓延しているこの言葉、本来の意味は恐らく言語障害など脳の障害由来の症状で上手く会話が出来ないことだと思いますが、近年は人見知りを表したり自称が多くなったりで全ての方に当てはまりそうな勢いです。

これを一番感じるのは意外にも車の運転です。

運転中に会話なんて必要ないのになぜ?と思うかもしれませんが車にもいくつかのコミュニケーションツールが備わっています。
特にウィンカーは近年正しく点灯しない方が多数派になっています。
恐らくこれを正しく使えない事は上手く会話が出来ないのと根は同じだと思います。
(目的意識がないからやらない、やらないから理解する力がつかない)

なぜ近年これが増えているのか?環境の変化が主な原因ではないでしょうか?

昔、田舎では近所の関係性が深くただ近所なだけで親戚以上の付き合いをしていたものです。
そのために家に居ても毎日誰かが訪ねてきて顔を合わせれば挨拶や会話をしていました。
外へ出れば家の中より更に顔を合わせるので挨拶や会話の機会が増えます。
こんな風に子供の頃から他人との軽い会話に慣れていったものです。
都会でも下町なんかはそれに近いものがあったと思います。
しかし近年はそれが薄くなり当然コミュニケーションも減っています。

そしてコミュニケーション不足による障害が色んなところに出ていると感じます。
例えば車なら交差点で向かい合った車がお互いに対向車を待って進まず、沈黙ののちにようやく両者右ウィンカーを点けるなんて場面を見かけます。(自分の意思表示もせずに何かを求めてる人って結構居ますよね)

中には右折のために右ウィンカーを点けて停止している車の右側(対向車線)に出てしまう後続車まで居ます。
これはウィンカーの意味すら考えなくなってただ車が止まっているとしか認識できなくなっています。
右折車が止まっているといことは対向車などにより進めない状態であるため、ちょっとしたパニックになっていました。(誰かからの話を理解できていないけど聞き返そうともせず勝手な解釈をしている方はこれに近いと思います)

コミュニケーションなんて無駄な話と思うかもしれませんが、人はコミュニケーションにより情報を得て自分の持っている情報の誤りを正し、サンプル数を増やし精度を上げたり新たな知識を得たりします。

そしてコミュニケーション不足による悪影響はこんな些細な出来事に留まりません。

個人差はあると思いますがコミュニケーションをしなくなると情報の不足分を脳内で補おうとします。
他人の意図するところなど考えても答えが出るはずのないことまで答えを出そうとします。
(もしも答えが出るような方が居たら既に以下のような病気かもしれません)
このような状態でストレスなどにより睡眠不足に陥るような事があると統合失調症になる可能性が高くなります。

統合失調症は遺伝と言われていましたが、誰にでも起こる可能性があると思います。
これは患者として認識された方だけのデータから傾向を作ったためではないでしょうか?
(喫煙率が非常に高い時代にある病気の患者のほとんどが喫煙者だから原因は喫煙だとしていたようなもの)

統合失調症は幻聴や幻覚が主な症状として挙げられます。
多くの人は現実に有り得ないことが見えたり聞こえたりしたら自分が病気と気付くと思うかもしれません。
しかし寝ているときに見る夢を思い出してください、正気の時に考えたら笑ってしまうぐらい有り得ない事でも夢の中ではそれを現実として真面目に対応するものです。
統合失調症は起きていながらな夢を見ているような病気なので自分で気付くことは困難です。

どうして統合失調症は誰にでも起こると考えるのか?
どんな人でも数日寝ないと幻覚や幻聴が出ると言われています。
そして統合失調症の症状と覚せい剤による影響もまた似たものが有ります。
陰と陽ぐらい違うイメージがあるかもしれませんが恐らくほぼ同じです。
(この3者は「睡眠不足」というワードで結ばれると考えます)

覚せい剤が人を廃人にすると言われますが、統合失調症も同じです。
発症すると脳を正常な状態に戻すのはほぼ不可能です。
症状を繰り返すと更に状態は悪くなります。

昔は精神科というものは大きな街に1~2か所ある程度で心療内科などは有りませんでした
近年は大きな街なら10か所以上の精神科・心療内科があり、小さな町でも心療内科があるくらい増えています。
それだけ増えても予約が2~3か月待ちなどになっているようです。

テレビのニュースでもおよそ当事者が統合失調症と思える事件が増えてきました。

近年は”不登校 ≠ 引きこもり”を容認するようになってきましたが、これは良い事とは言えません。
自殺よりマシという考えから容認されるようになった思いますが、引きこもりは究極のコミュニケーション不足の状態で成長しない上に将来的に統合失調症で普通の生活が出来なくなるリスクが高くなります。
学校以上のコミュニケーションの場はないと思いますが、不登校を許すなら学校に代わるコミュニケーションの場を与えましょう。

昔から日常的に繰り返されているコミュニケーションには多くのメリットがあるはずです。
どのようなメリットが有るのかなど考えたらきっと多くの人はコミュニケーション障害(人見知り)を克服できるのではないでしょうか。

小学校でプログラミングが必修化?

論理的思考の習得を目的としているということですが疑問だらけです。

本当に何もないところから全てを自分で組み立てるプログラムをやらせるなら大賛成です。
しかしターゲットが小学生であることや内容が曖昧なこと、使用する教材がどうも素人が細かい事を考えずに使えるものを予定していそうなことなどからほぼ意味のないことな気がします。
企業が行っている技術を習得する講習会と称した宣伝のようなものの臭いすらします。

論理的思考とか物事の順序とか言っているようですが細かい事はアプリケーションが帳尻合わせてくれるから気にせずシーケンスだけ考えればいいとするとまったく無意味です。

例えばある日の予定を決める場合、あの店へ行ってあれを買って次の店へ行ってあれを買ってというシーケンス的な予定は誰でも考えると思います。
しかし店が休みだったらどうするか?また店はやっていたが買うべき物が品切れならどうするか?代替出来そうな製品が有るがそれで済ませるか?など細かい事はそうなってから考えるなんて人も多いんじゃないでしょうか?
しかしプログラムというのはその場になって考えるは通用しません。
予め全て想定してプログラムされていなければならないからです。

ちゃんとプログラムをやれば何か考えるときに直ぐに色んな選択肢が想定出来るようになりますが、細かい所はアプリケーション頼りでは思考に何の変化も起こりません。
しかし例え本格的にやったとしても学校の勉強適度でそこまで育つことはないとも思えます。

また学校の勉強というのは明確な正解・不正解を設定しがちですがプログラムに明確な正解・不正解を設定するのは難しいため、評価も困難なものになります。
先生の頭が固いために斬新かつ合理的なプログラムを理解出来ないなんて可能性も有ります。

なんでこんなことになったのか?
近年は政治ですら進める順番よりも重要度の順番を優先して失敗するので子供に教育したいと思ったのか?
よりも色んな業界で役立ちそうで将来有望だったドローンが規制などにより展開が難しくなり、どういう手段で取りついたかは知りませんが教育方面に食い込んだだけじゃないかと思います。

若い世代に伝えるべき雪国の常識

大雪からの雨

雨で雪が溶けてくれるから安心?

と思ってしまいがちですが実は大雪からの雨は非常に怖いことです。

降った段階では軽い雪ですが積もると圧縮され体積に対する重みは増します。
これだけでも結構重いのですが雨が降るとスポンジが水を吸うように水を含み重さは何倍にも増します。
この重みによって建物が倒壊する危険性が高まります。

近年の家屋はそれほど広くない面積に建てるため屋根の面積も小さく、また構造も襖や障子戸などが少なく柱が多く入っているのでかなり強くなっていますが、面積が広くて部屋も広く柱が少ない古い建物などは要注意です。

雪国で屋根の雪を落とすのは勿論雪の重みで倒壊しないようにという目的も有りますが、雨が降り出してからではもう遅いので雨に備えてという方が大きいと思います。

もうひとつ

大量に雪が積もっていたり、雪かきで山にした雪はクッションになるから屋根から飛び降りても平気と思うかもしれません。
確かにほとんどの場合は飛び降りたことによる怪我はしないと思います。
しかし雪に埋まって自力では抜け出せなくなる可能性があります。
後先考えずに飛び降りるのは止めましょう。

死人に口なしなので解りませんが屋根の雪下ろし中に転落とか屋根からの落雪に埋もれて死亡という事故の中には案外これが含まれているんじゃないかという気がします。